絶対勝つぞブログ

有益な情報しか書きません

小説の感想についておもうこと

小説を読んで読書感想文を書く人がいるが、僕はそういった人々はすごいと思う。僕のいうすごいとは、自分にできないことをできるのはすごいという意味で、だから例えば、なにかで優勝するとかはもちろんすごいし、委員会のリーダーをやるのはすごいし、人を殺すこともすごいと思う。正と負の方向は関係なく、いかに自分から遠いかがすごいかすごくないかの基準になる。

さて、僕が読書感想文を書く人をすごいと思う理由について。僕は読書感想文を書くことが苦手だ。

だって、小説を読んでも感動しない。なんどもなんども読んでいい部分を見つけていけば感動するのかもしれないが、面倒でそんなことしていられない。

小説を読んでる最中のもやもやとした気持ちは、小説を読み終わった後、微量のカタルシスに昇華されていくが、それは何とも言えない広く薄い湖から、塩一つまみほどの固形物に抽出(しかし、そこには不純物が混じる)するような作業で、それを人間性の表れとして放出するにはあまりにも量が少なすぎる。

だいたい、何か感想を持つときって、その広い湖がこころに広がっている状態で、これが純粋な状態であるから、そこに何か手を加えて文字に次元を下げようなんて言うのは、これは精神性の冒涜にほかならぬと感じているわけです。そうすると、こころと外界の境界にある、卑しいフィルターを通るせいで、感想は純度が下がってしまう。

そして、その感想を読んだ人には、絶対に元の湖を復元することはできない。だから感想を書く行為は一見ありがたいように見えて、エゴイズムにしかならなくなる。感想を書くことで、ゆらゆらと揺れる流動的な湖は固形物になり柔軟性を失ってしまう。もっとわかりやすくいうと、変動する気持ち(=感想)に器を与えてしまって、その形を固定し、逃げられなくしてしまうというような効果がある。

感想というのは人のバックグラウンド、つまり人生観が多大な影響を及ぼすものだと思う。子供の時につまらなかったものが、大人になってみたらおもしろいとか、お金がないときとお金があるときとでは受け取り方が違うとか。だから、なにか感想を抱いた時っていうのは絶対に同じ感想を抱くことのないもので、貴重なものだ。僕はそれを、ネットの広大な海に流してしまう行為がどうしてもできない。だから、僕は読書感想文をつらつらと書くことができる人というのは、僕とは違う種類の人間なのだなぁと思うのである。